“故郷”の訳文に対する比較

2016-05-14 17:09王雁
青春岁月 2016年7期
关键词:石像意味段落

王雁

要旨:比較の両方は魯迅研究者である竹内好と研究者丸山昇である。以下は竹内好の訳文を「訳文一」にし、丸山昇の訳文は「訳文二」にする;私が訳文の感じ深いところ、魯迅先生原文の興味深いところなどから研究した。よっつの例を通して、二人の研究者の訳文を比較しながら、いくつかの結論が出てきた。

キーワード:比較;翻訳方法

例一

原文:这来的便是闰土。①虽然我一见便知道是闰土,但又不是我这记忆上的闰土了。他身材增加了一倍;先前的紫色的圆脸,已变作灰黄,而且加上了很深的皱纹;②像是松树皮了。

訳文一:来た客は閏土である。①ひと目で閏土とわかったものの、その閏土は、私の記憶にある閏土とは似もつかなかった。背丈は倍ほどになり、昔のつやのいい丸顔は、いまでは黄ばんだ色に変り、しかも深い皺がたたまれていた。②松の幹のような手である。

訳文二:きたのは閏土だった。①私はひと目見て閏土だとわかったが、それは私の記憶の中にある閏土ではなかった。背丈は倍ほどになっている。昔の小麦色をした丸顔は、もう灰色に変わり、しかも深いしわもきざまれている。②松の木の皮のようだった。

一言:この段落は原文から見て比較的に重要である。これは文章の最初の少年閏土の外観描写に対する中年閏土の外観描写である。前文と比べて、描写の裏に魯迅先生の驚きと失望が隠れている。だから、訳すとき作者の感情も考えなければならない。訳文一の言葉遣いは流暢で適切と同時に作者の感情を表したと思う。訳文二は原文の文字通りに訳したが、何か失うところもある、感情とか。

①ところに訳文一は「ものの」を使って、その驚くという感情を含めて、訳文二は「が」を使って、比較的に正式的な表現法である。

②のところに訳文一は「松の幹」と訳しましたが、ちょっと不適切だと

思う。訳文二は「松の木の皮」と訳して、原文の意味を十分表したと思う。

例三

原文:他只是摇头;脸上虽然刻着许多皱纹,却全然不动,仿佛石像一般。①他大约只是觉得苦,却又形容不出,沉默了片时,便拿起烟管来默默的②吸烟了。

訳文一:首を振りどおしである。顔にはたくさんの皺がたたまれているが、まるで石像のようにその皺は少しも動かなかった。①苦しみを感じはしても、それを言いあらわすすべがないように、しばらく沈黙し、それからきせるを取りあげて、黙々とたばこを②ふかした。

訳文二:彼はしきりに首を振った。顔にはしわがいっぱい刻まれていたが、まったく動かず、石像のようだった。①おそらく苦痛は感じるが、形容のしようがないのだろう、彼はしばらく黙りこんだあと、きせるを取りあげると黙ってたばこを②吸った。

一言:この段落はただ二つの動作がある。ひとつは「首を振る」という動作で、もうひとつは「タバコを吸う」という動作である。しかし、その中に隠れている心の描寫は訳文一は訳文二よりもっと深いと思う。そして、もっと作者をその場におくことができると思う。

①のところに、原文が現したいのはその時閏土の立場と同じ、その苦しみを味わった。訳文一はこういう感じを与えたが、訳文二は作者が傍観者として訳した。

②のところに、たばこに関する動詞が違う。訳文一は「ふかす」を使った。訳文には「吸う」を使った。「ふかす」は「吸ったたばこを外へ吐く」という意味で、「吸う」は「たばこを鼻や口を通して体内へ引き入れる」という意味である。普通は「たばこを吸う」とよく使うが、この言語環境で「ふかす」を使ったら、その閏土当時の気持ちがよく伝えられる。

例四

原文:①来客也不少,有送行的,有拿东西的,有送行兼拿东西的。待到傍晚我们上船的时候,这老屋里的所有破旧大小粗细东西,②已经一扫而空了。

訳文一:①客も多かった。見送りに来るもの、品物を取りに来るもの、見送りがてら品物を取りに来るもの。夕方になって、私たちが船に乗り込むころには、この古い家にあった大小さまざまのガラクタ類は、②すっかり片づいていた。

訳文二:①客も少なくなかった。見送りもいれば、品物をとりにくるものもあり、見送りを兼ねて品物を取りにきたものもいた。夕暮れ、私たちが船に乗り込むころには、この老屋のありとあらゆる大小のガラクタが、②もうきれいになくなっていた。

一言:この段落は表面的に見れば楽な感情が見えますが、実はちょっと重いと思う。

①ところに原文がとてもユーモラスだと思う。残念ながら両方ともそのユーモラスさが感じられなかった。

②のところは魯迅先生が家のものがなくなったこと表したほかに、この人たちの貪婪まであらわしたい。だから、訳文一はこの点でもっと適切だと思う。

例六

原文:我想:希望是本无所谓有,无所谓无的。这正如地上的路;其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路。

訳文一:思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。①もともと地上には道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ。

訳文二:私は思った、希望とは元来あるともいえぬし、ないともいえぬものだ。それはちょうど地上の道のようなものだ。じつは地上にはもともと道はない、歩く人が多くなれば、道もできるのだ。

一言:これは一番有名な文である。特に最後の「其实地上本没有路,走的人多了,也便成了路。」は多くの中国人が読まれている。訳文一と訳文には大体同じであるが、最後のところにちょっと違っている。訳文一は「道になる」と訳して、訳文二は「道もできる」と訳した。訳文一のほうがその感じがもっと受けられる。

最後に:魯迅先生の文章はとても難しくて、スタイルが独特である。訳すのはとても勇気がかかる仕事である。二人の研究者は基本的な意味が伝えられたと言える。これから、もっと細かいところまで研究したいと思う。

备注:1、原文の「一日是天气很冷的午后,我吃过午饭,坐着喝茶,觉得外面有人进来了,便回头去看。」から最後まで;2、比較の両方は魯迅研究者である竹内好と研究者丸山昇である。以下は竹内好の訳文を「訳文一」にし、丸山昇の訳文は「訳文二」にする;3、私が訳文の感じ深いところ、魯迅先生原文の興味深いところなどから研究した。よっつの例を通して、二人の研究者の訳文を比較しながら、いくつかの結論が出てきた。

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